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姫 島 神 社(改訂)

大阪市西淀川区姫島4−14−2
祭神−−阿迦流姫命(アカルヒメ)・住吉大神
                                                     2008.08参詣、2019.08.13再訪

 阪神本線が新淀川を渡ってすぐの姫島駅の西約500m、駅北の東西道路を西へ、姫島交差点の二股路を右へ進んだ右側にある姫島公園の東隣に鎮座する。周囲は民家に囲まれている。式外社

※由緒
 社頭に掲げる案内には、由緒として
 「阿迦留姫命と住吉大神を祀る。創建年代は不明。豊臣秀吉の時代に一時は住吉神社と称したが、明治3年に社名を元に戻す。
 ご祭神阿迦留姫は、古事記によると『赤い玉より生まれた美人で、新羅の王子・天之日矛(アメノヒホコ)と結婚、常に美食を用意して仕えたが、高慢な夫の態度に耐えきれず難波に逃げ帰った』とある。
 また摂津国風土記(逸文)には、『新羅の女神が夫のもとを逃れ、筑紫の国・伊波比(イワイ)の姫島(大分県姫島)に暫くいたが、ここは新羅から近いので、きっと夫が追いかけてくるに違いないと、摂津の国に移り住んだ。そこて、元いた島の名をとって比売島と名付けた』とある。
 姫島は、難波八十島の一つで、阿迦留姫が留まった比売島が、この地にあたると伝えられてきた。
 古老の話によるとヒメが訛ってヒエ(稗)島と呼ばれ、ヘジマと発音していたという。(以下略)
とあり、

 拝殿前に置かれていた別途資料(レジメ)には、
 「姫島神社由緒 (やりなおし神社)
 明治5年、郷社に列せられる。創建年代は不明であるが、境内には正保5年(1648)からの石灯篭が10基あり、少なくとも江戸時代以前から御祭神として阿迦留姫命を祀っていたと考えられる。
   (中略−古事記の伝承を略記)
 当社は、大阪大空襲により社殿・宝物・地車10基以上を焼失、戦後は再起を図る人々の信仰も集め、阿迦留姫命同様なにもない状態からの出発となり、『やりなおし神社』といわれるようになっている」
とある。

 これによれば、当社は比売許曾(ヒメコソ)伝承(応神記−−新羅の女神が夫・天日槍のもとを逃れて難波の比売許曾に渡来したとの伝承)、特に摂津風土記・逸文にいう、夫のもとを逃れてきた女神が、豊前国(大分県)の姫島を経て、摂津の当島にやってきたという伝承に由来するものだが、いずれも伝承の域を越えない。

 また、古事記がいうように、新羅の女神・阿迦留姫命が渡来したのが応神期とすれば、その年代は5世紀前半頃かと思われるが、その頃の大阪湾は大阪市の上町台地近くまで海であったというのが定説で、後に難波八十島と呼ばれる数々の小島が形成されたのは8世紀以降といわれることから、その中の一つ・姫島に社殿等が造営されたのはそれ以降のことかと思われるが、その年代を推測できる史料はない。

 記紀には、姫島にかかわる古事として、
 *古事記・仁徳天皇(5世紀中頃)
  ・ある時、天皇が宴会を開こうとして日女島にお出でになった折、その島で雁が卵を生んだ
  ・天皇が武内宿禰に「お前は長寿だが、大和国で雁が卵を生むということを聞いたことがあるか、と問うた
  ・宿禰は、私は長寿ですが、大和国で雁が卵を生んだということは聞いたことがありませんと答え、
  ・日の御子である天皇が、末永く国を治められる標として、雁が卵を生んだのでしょう との寿歌を奉った
 *書紀・安閑天皇2年(6世紀前半頃)
  ・9月13日、大連に勅して、牛を難波の大隅島と姫島とに放って、名を後に残そうとされた
 *続日本紀・元正天皇・霊亀2年(716)
  ・2月2日、摂津国に命じて大隅・姫島の二つの牧を廃止させ、人民が水田をつくり、食料を増やすことを許可した
などがあるが、
 ・仁徳記は話は、同じ話が書紀・仁徳50年条には
  「河内の人が、茨田(マムタ)の堤に雁が子を生みました」と報告してきた」
とあり、続けて武内宿禰との問答が記されていることから、日女島とは茨田堤の西端・大阪市旭区・城東区の辺りではないかという(茨田堤−−現寝屋川市・守口市・大阪市東北部にかけて築かれたとされる河川堤防)
 ・安閑紀・元正紀にいう大隅島とは、今の旭区森小路の辺りに比定され、姫島はその南にあったとされる
ように、日女島は旧淀川の上流辺り(現大阪市旭区・城東区から守口市)にあったと推測され、そこから、
 「新羅の女神が渡来した難波の姫島に、アカルヒメを祀る比売許曽神社があったとすれば、それは今の旭区森小路周辺ではなかろうか」
ともいう(大和岩雄)

 これらのことに加えて、当地が旧西成郡に属するのに、記紀がいう比売許曾神社は旧東成区であって、属する郡が異なることなどから、当社の祭神を阿迦留姫とするには疑問があるともいえる。

 当に関する資料はほとんどなく、管見した資料としては、大阪府神社史資料所載の大阪府全志(1922)
 ・姫島神社は字北三の割にあり、阿迦留姫命・住吉四柱大神を祀れり。創建の年月は詳ならず。
 ・明治5年郷社に列し、同40年神饌幣帛供進社に指定せられ、同43年鷺洲村の無格社・鼻川神社を合祀せり
 ・境内には本殿・拝殿・神饌所・社務所あり
 ・末社に元楯神社・琴平神社・天照皇大神社(今はみえない)・稲荷社あり。老楠一株鬱蒼せり
とあるのが唯一だが、そこには当社の創建年次は不祥とある。

※社殿等
 道路角地の玉垣で囲まれた中が境内で、南側中央に朱塗りの鳥居が立っている。
 何処にでも見かける明神鳥居だが、笠木の両端が空に向かって極端に反っているのが特徴か。

 境内の中央奥に、大きな唐破風向拝を有する拝殿(入母屋造・瓦葺き)が南面して鎮座する。


姫島神社・鳥居 
 
同・拝殿
 
同・拝殿−向拝部分

 拝殿の裏、弊殿と連なって本殿(切妻造・妻入り・銅板葺き)が南面して鎮座する。
 屋根に千木・鰹木を挙げてはいるが、3面が板壁で囲われていて外から見ると覆屋然とみえる。
 あるいは、この内部には別棟の社殿が本殿として鎮座しているのかもしれないが、外から窺うことはできない。


同・本殿 
 
同・本殿側面(右から拝殿・弊殿・本殿)

*境内社
 境内左に、末社として、北から金毘羅宮、元楯社(土地の鎮守社)、玉栄稲荷社が東面して鎮座し、
 境内右の社務所の北に、別の稲荷社が南面して鎮座する。

 また、境内に入ったすぐの左、神武天皇遙拝所の周りに、ホタテ貝の殻(内面)に願い事を書いたものが数カ所立っているが、絵馬の代わりに奉納されたものと思われる。


金毘羅社・鳥居 
 
同・社殿

元楯社・正面 

同・社殿 
 
玉栄稲荷社(境内左)

稲荷社(境内右)
 
貝殻に書かれた絵馬

 なお、境内右手の稲荷社の北側に大きな楠の木が茂っており、「樟社」と称して蛇神が祀られているようで、レジメには
 「蛇神が祀られている楠社には、戦火の傷跡がいまだに残る樹齢900年といわれていたご神木の大楠であり、再生の象徴でもある蛇の信仰と合わさり『再出発の木』となっている」
とある(参詣時気づかずに写真なし)

◎万葉歌碑

 境内左手に三角錐形をした万葉歌碑が立っている。
 歌碑に刻まれる歌は
 「和銅4年 河辺宮人(カハベノミヤヒト)  姫島の松原に娘子(オトメ)の屍を見て 悲嘆(カナ)しびて作る歌二首
   妹が名は 千代に流れむ 姫島の 小松が末(ウレ・梢)に 苔生(ム)すまでに
   (歌意−−この娘子の名は 長く伝わるだろう 姫島の小松の梢に 苔が生えるほどまでも)(巻1 228番)
というもので、社頭の案内には
 「この地で亡くなった乙女を 作者が親しみを込めて表したもので、貴女の名は何時までも世に語り伝えられるであろうと読んだ」
とある。
 ここで詠われた姫島は当地だというが、万葉集編纂時(8世紀末)に姫島があったとする確証はなく、この歌は淀川上流の守口市高瀬辺りにあった島を指すとの説もある。

 なお、もう一首の歌は
   難波潟 潮干なありそね 沈みにし 妹が姿を 見まく苦しも
   (難波潟よ 引き潮にはなるな 水死した乙女の姿を 見るのがつらい) (229番)
というもの。
 
万葉歌碑

[参考]

 
4・5世紀頃の難波古図(推定)
(姫島は未だ海の中になる)
大阪府史・付図より
 
8世紀頃の難波古図(推定)
(ほぼ当地当たりに姫島がある)
万葉集(小学館刊)・付図より

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