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気 比 神 宮
福井県敦賀市曙町
祭神--伊奢沙別命・仲哀天皇(帯仲津彦命)・神功皇后(息長帯命)
    応神天皇(誉田別命)・日本武尊・玉姫命・竹内宿禰命
                                                       2020.01.31参詣

 延喜式神名帳に、『越前国敦賀郡 気比神宮七座 並名神大』とある式内社で、越前国一之宮。
 なお、境内には越前国敦賀郡の式内社5社が鎮座している(今は攝末社)

 JR北陸本線・敦賀駅の北約1.2km程にある小山・天筒山(テツツヤマ・H=171.3m)の南西麓に鎮座する。
 敦賀駅を西へ出て、駅前道路を経て国道8号線との白銀交差点を右折、直進した先に朱塗りの大鳥居が西面して立つ。

※由緒
 頂いた「御由緒略記」には、
 「北陸道総鎮守 越前国一之宮 気比神宮
  御祭神七座--上記(総括して「内七社」ともいう)

 由緒沿革
  伊奢沙別命(イササワケ)は、気比大神・御食津大神(ミケツオオカミ)とも称し、2千有余年、天筒の嶺に霊跡を垂れ、境内の聖地(現在の土公)に降臨されたと伝承され、今に神籬磐境(ヒモロギ・イワサカ)の形態を留めている。
 上古より北陸道総鎮守と仰がれ、海には航海安全と水産漁業の隆昌、陸には産業発展と衣食住の平穏に御神徳、霊験著しく鎮座されている。

 仲哀天皇は御即位(192)の後、当宮に親謁せられ国家の安泰を御祈願された。
 神功皇后は天皇の勅命により、御妹・玉姫命と竹内宿禰を従えて筑紫より行幸せられ参拝された。

 文武天皇の大宝2年(702)勅して当宮を修営し、仲哀天皇・神功皇后を合祀されて本宮となし、後に、日本武尊を東殿宮、応神天皇を総社宮、玉姫命を平殿宮、竹内宿禰を西殿宮に奉斎して『四社之宮』と称した。
 明治28年(1895)3月26日、神宮号宣下の御沙汰により気比神宮と改められた。
 延喜式神名帳に『越前国敦賀郡気比神社七座 並名神大』とあり、また朝廷からの御崇敬は特に厚く、伊勢の神宮と並び四所宗廟の一社に数えられた。
 中古より越前国一之宮と定められ、明治28年官幣大社に列せられ、一座毎に奉幣を預かることになった。(以下略)
とある。

 また、江戸中期の古記録・気比宮社記(1761)には
 「仲哀天皇御宇2年2月、此州に行幸、行宮を建て筍飯宮(ケヒノミヤ)と称す。
 天皇親しく筍飯大神に奉幣拝祭して、皇后・気長足姫尊に勅して曰く、朕此国を望見するに海陸相通じ、当に異賊を防ぐの地なり。朕八州を巡見の後 宮室を此地に作り永く居んと欲す。・・・」
とある(漢文意訳)

◎土公(ドコウ)
 当社境内の北の鳥居の下に小さな遙拝所があり、柱部に「気比神社古殿地 遙拝設備竣工記念 平成8年」とあり、
 鳥居を出た先、隣接する敦賀北小学校の一画に“土公”とよばれる当社発祥の地という聖地がある。

 鳥居脇の案内(石版)には
 「気比神宮境内東北部に位置し、当神宮鎮座にかかる聖地として、古来より『触るべからず、畏れ尊ぶべし』と社家文書に云い伝えられているが、嘗て天筒山の嶺に霊蹟を垂れ、更に神籬磐境の形態を留める現『土公』は、気比之大神降臨の地であり、伝教大師・弘法大師がここに祭壇を設け、七日七夜の大業を修したとも伝えられている。

 土公は、陰陽道の土公神の異称で、春は竃に夏は門に秋は井戸に冬は庭にありとされ、その期間は普請等を忌む習慣があったが、この土砂をその地に撒けば悪しき神の祟りなしと深く信仰されていた。

 戦後、境内地が都市計画法に基づき学校用地として譲渡の已む無きに至ったが、土公と参道はかろうじてそのままの形で残された。

 大宝2年造営以前の気比神宮は、此の土公の地に鎮座され、祭祀が営まれていた。
 この聖域を通じて気比之大神の宏大無辺の御神徳を戴くことができるように、この度、篤信者の奉賛により遙拝設備が立派に完成されるに至った次第である」

 また、戴いた由緒略記には、
 「天筒山の方角、神宮北東部に残る『土公』は、気比大神降臨の地とされ、当神宮鎮座にかかる聖地である。(中略)
 古い時代における祭祀形態は、神籬磐境(ヒモロギ イワサカ)と呼ばれ、大きな岩を中心とした山での祭祀、大木を中心とした森での祭祀など自然の形を損なうことなく祭祀が営まれた。
 仏教伝来による寺院建築の影響もあり、奈良時代から現代のような社殿を建てて祭祀を行うように変化した。
 当神宮創祀は2000年以上の神代に遡り、当初は現在の土公の地で祭祀を行ったというが、大宝2年(702)朝廷御関係の神々を合祀、現在のような社殿の元が建立され祭祀がなされた。
 御社殿建立後も土公は古殿地として手厚く護られ、平安時代の名僧伝教大師最澄・弘法大師空海は当大神に求法の祈誓をかけ、この土公前で七日七夜の大行を修したと伝える」
とある。 

 土公の現状は、石垣の中に土を盛り、常緑・落葉の樹木2本が茂っているだけで、鳥居前に柵があって近づけないため、神籬磐境跡の有無は不明。


土公遙拝所・鳥居 
 
当社発祥の地・土公

 これらによれば、当社は、
 ・太古の昔、土公の地を神降臨の聖地として、神籬(ヒモロギ・仮設の祭祀場)を設けて祭祀をおこなったのが始まり
 ・大宝2年(702)に社殿を造営して伊奢沙別命を奉祀し、併せて仲哀天皇・神功皇后を合祀(社殿造営・本殿祭神の成立)
 ・後に、社殿4宇を造営して日本武尊(東殿宮)・応神天皇(総社宮)・玉妃命(平殿宮)・竹内宿禰(西殿宮)を奉斎した(四社之宮成立の年次不祥)
となる。

◎当社と仲哀天皇・神功皇后
 上記案内には、仲哀天皇・神功皇后が当宮を参拝されたとある。
 仲哀天皇・神功皇后と当地・敦賀とのかかわりについて、書紀・仲哀天皇2年条には
  ・2月6日 敦賀においでになった。行宮(カリミヤ)を建てて御住まいになった。これを筍飯宮(ケヒノミヤ)という
  ・3月15日 南海道に巡幸され紀伊国においでになった。皇后はそのまま筍飯宮に留まられた
  ・熊襲が叛いたので、天皇は熊襲を討つために船で穴門(アナト・山口県)においでになった
  ・その時、使いを敦賀に遣わされて、皇后に、敦賀を出て穴門で出会おうといわれた
  ・6月10日 皇后は敦賀から出発して穴門に向かわれた
とあり(古事記には天皇・皇后の敦賀滞在の記述はない)、天皇は敦賀に1ヶ月余り、皇后は4ヶ月ほどの滞在しており、その間 当社に参詣したとの記述はないが、参詣を否定する資料もない。

 しかし、気比宮社記には
  「(天皇からの命をうけて敦賀を出立するに当たり)皇后躬ら筍飯大神を奉幣。時に大神夢に告げて曰く、蒼海に浮かぶに海神を祭り・・・」
とあり、出立に際して、皇后は気比大神を参拝し、海路の安全を海神に祈れとの夢告をうけたとある。
 また、敦賀郡志(1915・大正4)にも
  「仲哀天皇 神功皇后を率いて御詣あり、韓国征服の祈誓あり」
とある。

 当社は、主祭神・伊奢沙別命を除けば、創建由緒・祭神などは仲哀天皇・神功皇后が中心となっているが、仲哀天皇・神功皇后の実在は疑問視されており、上記の天皇・皇后関連の記述は、記紀の記述を史実とする歴史観のなかで、それを拡大して作られた伝承とみるべきであろう。
 (例えば、敦賀郡志に、仲哀天皇・神功皇后が当社に参拝して韓国征服を祈誓したとあるが、西に宝の国ありとの神託は、両帝の筑紫滞在時のことであって、それ以前の敦賀滞在時に韓国の名が出てくるのはおかしい)

◎創建時期
 当社における社殿の造営(神社創建)は大宝2年とされ、それ以前から旧社地・土公の地で神籬を設けての神マツリが行われていたというが、それが何時頃にはじまるのかは不明。
 ただ、書紀・持統天皇6年(692)9月26日条に
  「白鵝(ハクガ・白いガチョウか)を角鹿郡(敦賀郡)の浦上で捕らえた。よって気比神宮に食封二十戸を、これまでの分の上に加えた」
とあり、
 また新抄格勅符抄所載の大同元年牒(806、奈良時代以降社寺に与えられた封戸の記録)
  「天平神護元年(765)9月7日 越前国気比神 44戸 天平3年(731)の従三位料200戸と合わせて244戸」
とあることから、大宝2年創建というのは史実かもしれない。。

 なお、当社に対する公的記録として(持統6年以降)
 ・天平3年(731)9月7日 気比神244戸(封戸)越前国 天平3年12月10日従三位 (新抄格勅符抄)
 ・承和2年(835)2月23日 坐越前国 正三位勲一等気比大神祝禰宜 (続日本後紀)
 ・ 同 6年(839)12月9日 奉授 越前国正三位勲一等気比大神 従二位 (同上)
 ・嘉祥3年(850)10月7日 進 従二位越前国気比神 正二位 (文徳実録)
 ・天安3年(859)1月27日 越前国正二位勲一等気比神 従一位 (三代実録)
 ・寛平元年(889)7月17日 甲斐・越前・因幡等国神に一階を奉授す(日本紀略--この時、正一位に昇格したか)
があり、8世紀から9世紀にかけて順調に神階を上げ、最終的には最高位の正一位まで昇っており、これは、当社が北陸道の総鎮守として朝廷から如何に重視されていたかを窺わせる記録ともいえる。


※祭神
 当社祭神は、冒頭に記す伊奢沙別命以下の7座だが、気比宮社記には
 ・本殿祭神三座
   中央:足仲彦天皇(仲哀天皇)
   右 :気長足姫尊(神功皇后)
   左 :保食大神(伊奢沙別命)
 ・四社之宮(本殿の四方にある小祠の祭神)
   東殿宮--日本武尊一座(仲哀天皇の父)
           玉垣内の巽方(南東)に座す 西面
   西殿宮--武内宿禰一座(神功皇后の重臣)
           玉垣内の坤方(南西)に座す 東面
   総社宮--誉田別天皇一座(ホムタワケ、神功皇后御子の応神天皇)・相殿:常宮皇大后の御前[神功皇后也]
           玉垣中の艮方(北東)に座す 本宮を去ること二間許り 南面
   平殿宮--玉妃命(タマヨリヒメ、神功皇后の妹) 又の名・淀姫命・豊比咩命・豊玉比売命
           玉垣内の乾方(北西)に座す 南面
とあり、祭神七座の構成は古来から変わっていない(延喜式にも祭神七座とある)

◎本殿祭神三座
*伊奢沙別命
 当社本来の主祭神・伊奢沙別命の出自・神格は不詳だが、その神名の由来について、古事記・仲哀天皇段に
 「皇太子(誉田別命、亦の名:大鞆和氣命)は禊ぎをしようとして、武内宿禰を連れて近江・若狭国を巡歴し、越前国の敦賀に仮宮を造って御住まいになった。
 ここに其地に坐す伊奢沙和気大神が夢に現れて、『吾の名を御子の名に変えたいと思う』と仰せになった。そこで、その神を祝福して、『恐れ入りました。仰せのとおりに、御名を頂いて名を変えましょう』と申しあげた。
 すると、また神が『明日の朝、浜においでなさい。名を変えた徴として贈物を差し上げましょう』と仰せになった。
 その翌朝、皇太子が浜においでになると、鼻の傷ついた海豚(イルカ)が浦一杯に集まっていた。
 これを見た皇太子が、『神が私に食料の魚を下さった』と仰せになった。そして、その神の御名を讃えて“御食津大神”(ミケツオオカミ)と名づけた。今 気比大神というがこの神である。
 また、その傷ついたイルカの鼻の血が臭かったので、その地を血浦(チウラ)といったが、今は敦賀と呼んでいる」
との説話がある(名易説話)

 この説話の意味するところについては
 ・服属儀礼説--古代にあって、正式な名を名乗ったり御饌を差し上げることは、自己の全てを差し出す服属儀礼のひとつであったことから、ここでは伊奢沙別命が、敦賀国およびそこでの祭祀権を大和朝廷に差し出したことを指すとの説。
 ・禊ぎ説--神功皇后は筑紫から大和に帰ったとき、皇位継承権をもつ仲哀天皇の御子麛坂王(カゴサカ)・忍熊王(オシクマ)を討って応神天皇即位の道を開いていることから、皇太子の即位に先立って、その時流された血の穢れを祓うために気比宮におもむかせたという説だが(古事記に“禊ぎをしようとして”とある)、その禊ぎの場が気比神宮であったかどうか不詳。
 ・成人式説--皇太子・誉田別の成人式という説
ほか諸説があるが、いずれも隔靴掻痒(カッカソウヨウ)で定説となるものはない。

 なお書紀には、神功皇后13年条に、
 「2月8日、武内宿禰に命じて皇太子に従わせ、敦賀の筍飯大神にお参りさせた」
とあり、
 応神天皇即位前記には、天皇名・誉田天皇の由来である名易説話を記した後に、
 「一に曰く、天皇が皇太子となられたとき、、越国においでになり、角鹿の筍飯大神をお参りになった。その時大神と太子と名を入替えられた。それで大神を名付けて去来紗別神(イササワケ)といい、太子をば誉田別尊と名付けたという。
 これだと大神の本の名が誉田別神、太子が去来紗別尊ということになる。けれどもそういった記録はなく、まだ詳かでない」
との注記がある。
 この注記が書紀編纂当初からのものかどうかは不明だが(後世の付加ともいう)、このような注記があることは、大神と太子間での名易説話に疑問を呈していることを示唆するといえる。
 なお、太子の御名について、古事記には「仲哀天皇、息長帯比売命を娶って生みましし御子・大鞆和氣命(オオトモワケ)亦の名・品陀別命(ホムタワケ、誉田別とも記す)」とあるが、書紀には皇太子あるいは太子とあって御名の記録はない。

 この矛盾を解決するためか、古事記伝(12巻、1798)には、
  「この太子の御名は、大鞆和氣命亦の名は品陀和氣命とあるを、今此の大神に譲り給ふは、大鞆和氣の方ならむ、(然れば此れより後は、此の御子は大鞆和氣命とは申さず、後まで品陀天皇とぞ申し奉れるならむ)
  然れば此の大神の本御名は伊奢沙和氣大神と申せしを、此時より大鞆和氣大神とぞ申しけむ」
として、大神は太子から誉田別ではなく大鞆和氣の御名を譲り受けたという。
 しかし、気比大神を大鞆和氣命と称した記録はなく、本居宣長の苦し紛れの解釈であろう。


 当社主祭神は古来から伊奢沙別命(気比大神としもいう)というが、それは旧社地・土公背後の天筒山に坐す在地の神(山の神・水の神)であって、人々はこの神に豊穣を祈ったと思われるが、その具体の神名については古来から諸説がある。

 その主なものとして
*保食神(ウケモチ)説--氣比宮社記他
 食物を司る神で、書紀5段一書11には、天照大神の命により訪れた月夜見尊(ツクヨミ)を口から出した食べ物で饗宴したことから、怒った月夜見尊に殺されたが、その死体から、稲・麦・粟などの穀物・牛馬・蚕など“人々が生きていくに必要な品々が生じた”とあり、食物の神とされる。

 気比宮社記には、本殿祭神三座の内、左:保食大神とし、その別号として伊奢沙別大神の名を記している。
 伊奢沙別命を保食神とするのは、名易説話で伊奢沙別命を御食津神(食物神の一般神名)とすることから、その具体神名として保食大神を充てたのであろう。

 なお、「応神天皇が若かったとき、御名を易へた神の名を御食津大神と号すとあるのを、神代紀にある保食神と事と賢(サカ)しらに心得誤って、このように伝えたものなり」(官社私考、大意)として、保食神とするのは非であるとする説もある。

*仲哀天皇説
 書紀にいう、仲哀天皇が角鹿の行宮に留まられたとする伝承から、これを主祭神とするもので、
 ・帝王編年記(14世紀中頃)--仲哀天皇4年 天皇橿日宮に崩ず 今気比大明神此の神也
 ・神名帳考証(伴信友・1813)--或人曰 気比大神 是仲哀天皇廟なり
というが、
 ・古事記伝--此神社を仲哀天皇を祀ると云ふ説(帝王編年記)は信じがたし。如何なる神にか詳ならず
 ・神社覈録(1870)--或人曰 気比大神是仲哀帝廟也。・・・されど主神を仲哀天皇とするは信じがたし。
    故に今左に坐す御食津大神(保食神)を以て第一とす。そは所謂社説に、保食神上古より此地に在り といふに従ひて也
として、仲哀天皇説を否定している。

 ただ、この仲哀天皇説は古くから広く流布していたようで、
 ・大日本国一宮記(16世紀後期)
 「越前国一の宮 敦賀郡気比大明神
  当社は14代仲哀天皇の垂蹟にして石清水と同体なり・・・また筍飯宮と称す」

 ・八幡宮本紀(江戸中期)
 「気比宮社家伝に伝 保食神 上古より此所に鎮座ましましける。しかるに推古天皇神の御宇に、仲哀天皇の神霊託告有りて 角鹿郡天筒峰に鎮座あり。文武天皇大宝2年 今の処に遷座なし奉り 保食神と同殿に鎮め祭る。是を気比大神と云」
などがある。

 ただ、本殿祭神は古くから三座であり、そこには伊奢沙別命(気比大神・保食神)と仲哀天皇が別々に祀られており、両神は別神であることは明白であろう。

*天日槍命説(アメノヒホコ)
 天日槍命とは、書紀・垂仁天皇3年春3月条に『新羅王の子、天日槍命が、羽太の玉以下の宝物7点を持ってきた』とある渡来人で、
 「船に乗って播磨国・宍粟邑に至り、天皇の許しを得て、宇治川を経て近江国・吾名邑に暫く住み、其処から若狭国わ経て但馬国に至り、但馬国出石人の娘を娶って但馬諸助を生んだ」(大意)
という。

 この天日槍命祭神説に関して、神祇志料(1871)には、
 「伊奢沙別大神はこの他に見えざれば、何神とも云うこと詳かならず。
 されど、仁明天皇承和6年に遣唐使の事を住吉と此神に祈りつるは(続日本後紀・承和7年8月条に遣唐使船の無事帰還を両神に祈ったとある)、海路に所以在りての事と聞ゆるに附いて思ふに、此は天日槍命にはあらじかと思はるる由あり。
 其は、天日槍新羅より渡来し時、播磨より北海を経て角鹿にも至りけむ故に、その経歴の地なるを以て之を祀りしなるべし」
として、天日槍命が渡来したとき当地を経由しているという。

 しかし、書紀に天日槍命が当地に来たとの記述はなく、代わって垂仁2年条に
 「崇神天皇の御世に、額に角の生えた人が、一つの船に乗って越の国の筍飯の浦に着いた。故に其処を角鹿と云ふ。大加羅国の王子で、名を都怒我阿羅斯等(ツヌガノアラシト)と名乗った」
とあり、この都怒我阿羅斯等渡来伝承を天日槍のそれと混同したものと思われる(この両者は往々にして混同され、同一人物とする説もある)

 なお、谷川健一氏は
 ・天日槍命が持ってきた宝物の中に“胆狭浅(イササ)の太刀”があり、神名・伊奢沙別と太刀名・胆狭浅の読みがいすれも“イササ”であることから、何らかの関係があるのではないか
 ・正殿右の摂社・角鹿神社にはツヌガノアラシトが祀られている。元々は正殿に祀られるのが当然と思われる人物が、摂社の位置に置かれたとの感なきを得ない
 ・天日槍命の本拠地である但馬国にも伊奢沙別大神を祀る式内社2社(城崎郡:気比神社・伊伎佐神社)があり、その祭神について、地名辞書は「けだし天日槍命を祀ると云ふ」と記している
として、
 「当社とアメノヒホコ(ツヌガノアラシト)も、それに率いられた朝鮮半島の金属精錬集団との間に何らかの関係があるのでないか」
という(青銅の神の足跡)

◎四社之宮祭神
 本殿の左右に2社ずつ南北に並んで鎮座する4社。
 ・日本武尊(東殿宮)--景行天皇(12代)の皇子で、仲哀天皇(14代)の父
 ・応神天皇(総社宮)--神功皇后の皇子、八幡宮の主祭神
 ・玉妃命(平殿宮)---開化天皇(9代)4世の孫で神功皇后の妹(古事記には虚空津比売命-ソラツヒメとある)
 ・竹内宿禰(西殿宮)--景行・成務・仲哀・仁徳の5代に仕えたという忠臣で、特に、神功皇后の三韓征伐に功があったという伝説上の人物で超長寿であったという(通常・武内宿禰と表記する)

 玉妃命について、気比宮社記には
  「平殿宮・玉妃命一座 又名淀姫命・虚空津姫命・・・
   開化天皇の曾孫・息長宿禰が葛城之高額比売を娶りて生みし子・息長帯比売命、次に虚空津比売命(ソラツヒメ)・・・
   三韓征伐の昔、干満両珠を得て、神威を以て刃を血塗らずして海外の異賊凶徒を降伏せしむ」
とあり、神功皇后の妹姫で、三韓征伐に功があったことから当社に祀られたという。

 ただ、ここでは玉妃命が潮の干満を自在に操ることができる干満両珠をもたらしたというが、太平記に
 ・神功皇后が、軍評定のため天神地祇の参集を乞われたが、海神・安曇磯良(アズミノイソラ)のみは、久しく海底に住むため五躰に貝や藻が付いて醜いからとしてやってこなかった。
 ・そこで催馬楽などを奏した誘ったところ、磯良はそれに感じて参上してきた
 ・そこで磯良に命じて、潮を操る霊力をもつ潮満珠・潮乾珠を龍神から借りてこさせ、皇后はこれを以て新羅軍を翻弄して勝利を得ることができた。
とあるように(大略)、龍宮から干満両珠を借りてきたのは安曇磯良というのが通説となっている。

 なお、この干満両珠について、書紀10段の山幸彦説話には、山幸彦(彦火火出見尊)が、なくした兄・海幸彦の釣り針を尋ねて訪れた海神の館から帰る特、海神から貰った潮満玉・潮涸玉(干満両珠)を用いて兄・海幸彦をこらしめたある。


※社殿等
 当社は西を国道、南と東を市道に囲まれた一街区を占め(北側に小学校あり)、その南西角に大鳥居が立つ。
 なお、神仏習合期(江戸時代)の当社を描く古図には、大きく別けて、西側に神社社殿が今とほぼ同じ位置に描かれ(本殿の北に五重塔あり)、東側には仏教寺院堂舎が描かれている(右側突出部に政所社とあり、今の角鹿社に相当する)

 
社域・案内図
 
気比神社・古図

 境内南西角に朱塗りの大鳥居(一の鳥居)が立ち、参道を進んだ左に二の鳥居が立ち、境内に入る。
 大鳥居は、
 ・日本三大鳥居の人で、国の重要文化財
 ・高さ:36尺(10.9m) 柱間:24尺(7.45m) 木造両部型本朱漆
だが、傍らに立つ案内には、
 ・大鳥居の歴史は、通称赤鳥居として嵯峨天皇弘仁元年(810)の造営時に、東参道口に創建されたが、度重なる災害により倒壊した為、正保2年(1645)境域の西門に配し、同礎石を移し、寛永年間(1624--44)旧神領地佐渡国鳥居ヶ原から伐採奉納の榁(ムロ)樹一本で両柱を建て再建されたのが現在の朱塗りの大鳥居である。
 明治34年国宝に指定(現在は国の需要文化財)、木造では天下無双の大華表(大鳥居)と古くから呼称され、各時代それぞれに権威ある伝統技術によって保存修理が行われ、今日にその偉容を伝えている。
 尚、正面の扁額は有栖川威仁親王の御染筆である」
とある。


気比神宮・大鳥居 
 
同・二の鳥居
 
境内・社殿配置図

 二の鳥居を入った境内正面に、南から外拝殿(左右に控所・儀式殿が接続する)・内拝殿・本殿が南面して鎮座する。

 
同・外拝殿

同左・側面
(右部分は儀式殿) 
 
同・内拝殿

 拝殿の背後、ブロック塀に囲まれた中に本殿が南面して鎮座する。
 略記によれば、
 ・慶長19年(1614)福井藩主結城秀康公により再建された本殿(国宝)は、戦災により焼失。
 ・戦後の昭和25年に再建され、同57年からの昭和の大造営に際して改修された
とある。

 現本殿構造は流造と思われるが、塀が高く且つ樹木に阻まれて側面が見えるだけで、詳細不明(本殿に関する資料は見当たらない)

 なお、本殿の左右に『四社の宮』と呼ばれる小祠4社(東殿宮・西殿宮・総社宮・平殿宮)が鎮座するが、外から見えるのは本殿左の2社の屋根のみで(西殿宮と平殿宮と思えるが、社名不明)、東側の2社は実見できない。

 
同・本殿(側面)
 
同 左
 
四社の宮のうち西側の2社


【境内西側】
●拝殿西側、本殿瑞籬の外に小祠7社が南北に並び、これを御子神七社という(外七社ともいう)
 北から
◎劔神社(ツルギ) 末社
 気比宮社記には
  御子劔神社  一説に曰く、往昔神明の奇瑞有り、是に因りて莇生野村(アゾノ)より此地に勧請奉る
  祭神一座 姫大神命 是第一王子宮也
とある。

 なお、延喜式神名帳には「越前国敦賀郡 劔神社」との式内小社がみえ、気比神宮西方鎮護の社といわれるが、今、敦賀市莇生野(気比神宮の南西)、丹生郡越前町(気比神宮の北北東)にある2社が論社となっている。
 末社・劔神社は莇生野の式内・劔神社からの勧請というが、その因である“神明の奇瑞”が如何なるものかは不明。

◎金神社(カネ) 末社
 気比宮社記には
  金神社 祭神一座 或説に云ふ金劔宮 正説を知らず
  秘伝に曰く、素盞鳴尊を祭る、即ち社号天金宮と号す 是第二王子宮と謂ふ
  社家伝記に曰く、延暦23年釈空海気比神宮に大般若経一千巻を転読、渡唐求法を祈る。・・・弘仁7年復当宮に詣で、御子神金神社の霊鏡を請ひ、紀州高野山の鎮守の社として天野社第三殿に勧請して気比明神と称す。
とある(敦賀郡誌も同じ)
 なお、空海が気比明神として勧請したという天野社とは、和歌山県かつらぎ町に鎮座する丹生都比売神社のことで、いま、その第三殿には御食津神と称して気比大神が祀られている。

◎林神社(ハヤシ) 末社
 気比宮社記には
  林神社 祭神一座 林山姫神(ハヤマヒメ)鎮座也 是第三王子宮と謂ふ
  秘伝に曰く、当社三度の垂迹の神秘有り。抑も天神七代に於いては面足尊(オモタル)・惶根尊(カシコネ)、地神の御代に及び倉稲魂(ウカノミタマ)・保食大神(ウケモチ)、人皇に至り仲哀天皇・神功皇后也。(以下略)
とある。

 これによれば、当社祭神は3度変わったと思われるが、変わった経緯、これらの神々と林山姫神との関係は不明。
 面足尊・惶根尊とは、神代七代の6代目に成りでた神でイザナギ・イザナミの前に生成した対偶神(夫婦神)だが、その神格は不詳。岩波版古事記には「人体の完備と意識の発生の神格化か」との注記があるが、意味不明。
 食稻魂・保食大神は食物の神。

 なお、敦賀郡誌には、
 祭神祥ならず、或云ふ、林山姫神の鎮座也なりと。或云ふ、面足尊惶根尊なりと。
 延暦4年、勅によりて僧最澄参詣して求法を祈り、同7年復下向して林社の霊鏡を請ひ、江州比叡山に勧請して気比明神と称す。
とある。
 最澄が勧請したという気比明神は、今、日吉神社・西本宮境内に気比社(祭神:仲哀天皇)として鎮座している。

◎鏡神社 末社
 気比宮社記には
  鏡神社 祭神一座 是第四王子宮と謂ふ
  秘伝に曰く、上古神功皇后降臨の時、種々の神宝を筍飯宮に捧げらる。神宝中宝鏡尤も霊異多き也。
  後に別殿に奉祭し、国常立尊御子の天鏡尊を合祀して天鏡宮とも号す也。
とある(敦賀郡誌にも略同意文あり)

◎天利劔神社(アメノトツルギ) 摂社
 延喜式神名帳に、『越前国敦賀郡 天利劔神社』とある式内社。
  祭神--天利劔大神
 境内西側の瑞籬外に南北に並ぶ御子神七社の一で、北から5番目に鎮座する(第五王子宮)

 敦賀郡誌には
 ・祭神祥ならず。或は云 仲哀天皇の宝剣霊験あり、崇祀して天利劔宮と称すと。
 ・続日本後紀(869)に、仁明天皇・承和7年(740)9月 越前国気比大神の御子 無位天利劔神に従五位下を授く、とある
  なお、越前国内神名帳には「正四位 天利劔神」とあるというが、出典不明。

 郡誌は、祭神:天利劔大神を仲哀天皇奉納の宝剣を神格化したものというが、
 ・神階授与記録に“気比大神の御子”とあるように、気比大神(伊奢沙別命)の御子神とする説が有力という。 
 ・承和7年に神階を受けているから平安前期には実在していた古社といえる。

◎天伊佐奈姫神社(アメノイサナヒメ) 摂社
 延喜式神名帳に、『越前国敦賀郡 天比女若御子神社』とある式内社。
  祭神--天比女若御子神(天伊佐奈日女神ともいう)
 本殿域西側の瑞籬外に並ぶ御子神七社の一で、北から6番目(天利劔神社の左)に鎮座する(第六王子宮)
 敦賀郡誌には、「祭神は伊弉冉尊なるべし。 又云伊佐々別大神を祀ると」とある。
 祭神の出自・神格は不詳だが、続日本後紀に、「仁明天皇承和7年(840)9月 越前国気比大神の御子 無位天比女若御子神に従五位下を授く」とあり、気比大神の御子神という。

◎天伊佐奈彦神社(アメノイサナヒコ)
 延喜式神名帳に、『越前国敦賀郡 伊佐奈彦神社』とある式内社。
  祭神--天伊佐奈彦神
 本殿域西側の瑞籬外に並ぶ御子神七社の一で、北から7番目(天伊佐奈姫神社の左)に鎮座する(第七王子宮)
 敦賀郡誌には、「祭神は伊弉諾尊なるべし。式内なり」とある。
 祭神の出自・神格不詳だが、続日本後紀に、「仁明天皇承和7年(840)9月 越前国気比大神の御子 無位天伊佐奈彦神に従五位下を授く」とあり、気比大神の御子神(第7王子)という。

 なお、この式内2社について、「社家伝記に曰く、伊佐奈日女神社・伊佐奈日子神社は造化陰陽の二神祀り奉る也」として、伊弉冉尊・伊弉諾尊に充てる説がある。この2神をヒメ・ヒコ一対の神とみたものだろうが、詳細不明

 
御子神七社
 
末社・林神社(同形の小祠が7社並ぶ)


●御子神七社の南端からカギ形に東へ曲がって、小社2社が北面して鎮座する。
◎擬領神社(オオミヤツコ) 末社 2社の西側に鎮座
 気比宮社記--祭神一座
  一説の云 武功狭日命(タケイサヒ)を祭るか。又云 擬領神是大美屋都古能神(オオミヤツコノカミ)と訓む。
   又云 延喜式に謂ふ所の玉佐々良彦神社是か
  旧事記に曰 角鹿国造 成務朝の御代 吉備臣の祖・若武彦命の孫・建功狭日命を国造と定むと
   玉佐々良彦神社と謂う説 未だ自余の社記に見えず
 敦賀郡誌--祭神祥ならず。或云 建功狭日命(タケイサヒ)かと

 ネット資料(気比神宮末社・擬領神社と吉備国)によれば、気比神社HPには
  擬領神社
   社記に武(建)功狭日命と伝え、一説に大美屋都古神(オオミヤツコノカミ)又は玉佐々良彦命(タマササラヒコ)とも云う
   旧事記には『蓋し当国国造の祖なるべし』と載せてある
とあるというが、当社の創建由緒・時期等は不明。

 社名・擬領とは、律令制下の地方官・郡司(グンジ、大領・少領・主政・主帳からなる組織)の長官・大領(ダイリョウ・和訓:オオミヤツコ)を指すという説と、大領の候補者・擬大領を指すとの説があり(大領不在時の臨時大領職ともいう)、当社の正式社名は“擬大領神社”ではないかという。

 当社祭神とされる建功狭日命とは、吉備臣の祖・稚武彦命(ワカタケヒコ・稚武吉備津日子ともいう)の孫で、成務朝の御代に角鹿国造に任ぜられたという人物(先代旧事本紀)
 大化改新で国造制が廃止され、地方に国司・郡司が置かれるに伴い、国造であった命の子孫(角鹿氏)が、角鹿郡郡司(地方官)の長官である大領(或いは擬大領)に任じられ、その角鹿氏が当社を創建して祖神・建功狭日命を祀り(時期不明)、角鹿氏の職名・大領の和訓み・オオミヤツコを以て社名としたと思われる。

◎伊佐々別神社(イササワケ) 摂社 2社の東側に鎮座
  敦賀郡誌--気比大神(伊奢沙別大神)の荒魂なり
           応神天皇・武内宿禰の勧請する所なりと云
           旧伝に云ふ。此神は漁労を守護せらるる故に、社殿は北に面すと
  気比宮社記--伊佐々別大神  東方に在り 古来漁捕の輩 之を尊敬奉る
             是 応神天皇・武内大臣 新に勧請する所の社也
  社伝--誉田別命(応神天皇)が、武内宿禰に命じて気比神の荒魂を勧請したことに始まる。魚を賜ったことから漁労の守護神とされ、社殿は海を望んで北面している。
とあるだけで、詳細は不明。


左:擬領神社・右:伊佐々別神社 
 
伊佐々別神社(擬領神社も同形) 

 なお、上記御子社7社に、この2社を加えて「九社の宮」とも呼ぶ。

●御子神七社の北、短い参道奥の覆屋の中に小祠2宇が南面して鎮座する。
◎神明両宮 末社
  ・外宮--豊受大神
 気比宮社記には、
  「豊受皇大神天御中主尊 伊勢国に坐す宗廟国常立は天御中主尊也。諸国の神明に於いて拝察するは天御中主尊也。古伝国常立尊を以て帝皇の元祖と為し、天御中主尊を以て君臣の両祖と為す也
として、伊勢外宮の祭神・豊受大神と天地開闢のき最初に成りでた天御中主尊を同体としている。
 中世以降に広がった神仏習合思想を取りいれて記紀神話を再編成(中世神話)した所謂中世神話では、豊受大神は天御中主と同体とされており、豊受皇大神天御中主尊とは之をうけたものであろう。

  ・内宮--天照皇大神
 気比宮社記には、
  「天照皇大神心化之姫大神 伊勢国に坐す宗廟天照大日靈貴尊也。諸国の神明に於いて崇祀するは日神心化比売神也
とある。
 この心化之姫神が如何なる神かは不明だが、注記からみて大日靈貴神(天照大神)を指すかと思われ、これも中世神話による神名であろう。

 なお、外宮・内宮の鎮座時期は、
 ・外宮--慶長17年(1612)
 ・内宮--元和元年(1615)
といわれ、いずれも中近世に弘まった伊勢両大神の地方勧請という風潮にのって勧請されたものと思われる。

 
末社・神明両宮・覆屋
 
外 宮
 
内 宮

【境内東側】
 境内東側・東参道の近くに攝末社3社が鎮座する。北(参道側)から

◎大神下前神社(オオミワノシモサキ) 末社
 延喜式神名帳に、『越前国敦賀郡 大神下前神社』とある式内社。
  祭  神--大己貴命 
  合祀神--稲荷神・金刀比羅神
 境内東側・東参道入口のすぐ南に鎮座する。

 傍らの案内には、
 ・敦賀市内気比大神四守護神に一社で、元は北東の天筒山麓に境外末社として鎮座されていたのを、明治44年現在の地に遷座。稲荷神社・金刀比羅神社を合祀した。

 敦賀郡誌には
 ・もと道後神(ドウゴカミ)と称す。金前寺領目録(1507・室町中期)に道後神社と見ゆ。
 ・社記に云 道後神社。祭神一座。一説に曰く大己貴命、一説曰く大神下前神
 ・今より凡そ200年前(江戸後期) 宮守勝田某 金比羅神・稲荷神を勧請して、今は三座(大己貴命・金刀比羅大神・稲荷太神)なり
 ・社はもと幸臨山天筒の麓に鎮座し本宮の境外末社であったが、明治9年6月に村社に列し、明治44年社地が鉄道敷地となりせば、境内の今の地に移す

 気比神宮社記には、
 ・幸臨山天筒の麓に坐す、北方鎮守の社。気比社内を去ること3・4丁北に在り。
 ・祭神一座 大己貴命 未だ正説を勘せず
 ・一説に曰く 延喜式大神下前神社也 未だ正説を勘せず
とある。

 ただ、大神下前神社が式内社であることは、10世紀以前から同名の神社が鎮座していたことを意味し、それが道後神社と呼ばれた経緯・時期、更に道後神社から大神下前神社に復した経緯・時期等不明。
 臆測すれば、後年、大神下前神社の所在地が不明になっていたのを、幕末から明治初年頃にかけての式内社調査の中で、何らかの資料をもとに道後神社を式内社に比定したのかもしれない。

 道後神社の鎮座地について、気比宮社記には“気比社の北3・4丁北方に在り”というが、その地について、殆どの資料は“宮内村に在り”とある。
 宮内村とは、当社鎮座地・曙町の北に接する“金ケ崎町”の辺り(天筒山の西麓)に比定されているが、その鎮座地は不明。
 なお、道後神社(或いは大神下前神社)遷座の因となった鉄道敷設とは、敦賀駅から天筒山の西を迂回する車両車庫への引き込み線を指すと思われる。

 今の当社祭神は大己貴命だが、その実、江戸時代に合祀された金刀比羅社・稲荷社として信仰されていると思われる。

 今、鳥居の奥に左右吹き放ちの拝殿が、その奥に三間社流造の本殿が鎮座する。


大神下前神社・鳥居 

同・拝殿 
 
同 ・本殿

◎児宮(コノミヤ) 末社
  祭神--伊弉冉尊

 傍らの案内には、
  「元は気比神宮寺の境内に鎮座。
  平安時代、寛和2年(986)9月20日遷宮の事が残されており、由緒は古く、・・・」

 気比宮社記には
  「児宮御社古来神宮寺境内に於いて之を祭る。然れども中世争乱の砌、神宮寺破滅。後太守朝倉氏に至りて児宮造立の時、今の地に之を移し祭る。天文年中に至り朝倉孝景修造。後復元亀の兵火以来退転の所、元和に至り再興造営。
 伊弉冉尊霊像を内陣に奉安する所也。古老相伝へ云う 代々の国司鎮守社として尊敬云々と」(漢文意訳)

 敦賀郡誌には
  「祭神伊弉冉尊 本殿の東南30間許りに在り。寛和2年(986)遷宮のこと社記に見えたれば、其の以前に鎮座なりしを知る。
  天文の初め(1530年代)、朝倉孝景社殿を造営して後、元亀元年兵火に罹りて其のままにありしを、元和9年(1623)松平忠直室の誓願により造営」
とある。
 ただ、伊弉冉尊を祭神とする当社が、社名を児社と称する由縁は不明。

 なお、Wikipediaには
 「寛和2年(986)に現在地に遷宮があったといい、それ以前からの鎮座と伝える。江戸時代以降は、小児の守護神として信仰されていた」
とあるから、兒宮というのは是に因るのかもしれない。
 当社の現在地遷座の時期を、社記は太守朝倉氏の頃、郡誌は寛和2年(986)というが、朝倉氏が越前国に入ったのは南北朝時代であることから(越前朝倉氏・1366--1573)、遷座に朝倉氏がかかわったとすれば14世紀以降であり、寛和2年というのとは整合しない。

 
兒宮・鳥居
 
同・社殿 


◎角鹿神社(ツヌガ) 摂社
 延喜式神名帳に、『越前国敦賀国 角鹿神社』とある式内社
 祭神--都怒我阿羅斯等(ツヌガノアラシト)
  相殿神--松尾大神(天保10年-1839に合祀という)
 境内東側の疎林の中、鳥居奥の瑞籬に囲まれた中に西面して鎮座し、境内摂社の第一という。
 気比宮古図(伝室町末期)の境内右側(東側)に、瑞籬に囲まれて『政所社』(マンドコロ)とあるのが是で、中世の頃から位置は変わっていない。

 傍らの案内には、
 ・祭神は都怒我阿羅斯等
 ・崇神天皇の御代、任那の皇子の都怒我阿羅斯等が気比の浦に上陸し貢物を奉る
 ・天皇は、気比大神宮の司祭と当国の政治を任せられ、その政所の跡にこの命を祀った
 ・その命の居館跡が舞鶴区であり、同区の氏神が当神社である
 ・現在の敦賀の元の地名は「角鹿」で、この御名に因る
 ・往古は東門口か表参道であったため、気比神宮本社の門神であった

 敦賀郡誌には
 ・祭神 任那王子・都奴我阿羅斯等なり。天保10年 相殿に大山咋尊(松尾大神、俗説:酒の神)を鎮め奉る。
 ・本殿の東方一町許りにあり、境内摂社の第一の社なり。
 ・政所社と称す。又門神ともいふ。往昔東門口表通なりしかば、という。(以下略)
とある。


 祭神・都怒我阿羅斯等とは、書紀・垂仁2年条に
 ・ある説によると、崇神天皇の御世、額に角の生えた人が越の国の筍飯の浦についた。そこを名づけて角鹿という。
 ・何処の何人かと尋ねると、大加羅国の王子・都怒我阿羅斯等なり、日本に聖王ありと聞いてやってきたと答えた。
 ・到来の時、崇神天皇は崩御されたていたが、そのまま留まって3年間垂仁天皇に仕えた。
 ・天皇が国に帰りたいかと問われると、帰りたいと答えたので、赤織の絹を与えて元の国に返された・・・
   (別伝として、日本に去った妻を追って日本にやってきたという所謂・比売許曾:ヒメコソ説話がある)
とある渡来人。

 この都怒我阿羅斯等について、谷川健一氏は
 ・額に角の生えた人間というのは、銅や鉄の製錬技術をもたらした大陸系の渡来人にほかならぬ
 ・角の生えた人としては、古代中国の神話に蚩尤(シユウ)との神人がある。蚩尤は鉄石を食い、額に角があって、それで戦うという
 ・額に角のある人とは、鉄人であり武器生産の神であった蚩尤の形像を伝えたものではないかと想像される
 ・敦賀は朝鮮半島との交流点として最適の場所であり、おそらく弥生時代以前から彼我の交通は開けていたと推量され、額に角の生えた人間が越前筍飯の浦に上陸したという伝承は、古くからあったのではなかろうか
として(青銅の神の足跡・1989)、都怒我阿羅斯等とは金属精錬の技術を有する朝鮮系渡来人を象徴する人物ではないかという。

 また、当社について、同氏は
 ・垂仁紀に、都怒我阿羅斯等という加羅の王子が筍飯浦(ケヒノウラ)にやってきたとある
 ・もともと、この渡来人が気比神宮の主神として祀られていたと思われるが、その後、応神天皇を主神として祀り、都怒我阿羅斯等は客神と呼ばれるようになった
 ・一般に客人神とか客神といわれるものの中には、後から客としてやってきた神のほかに、神社を建てるとき、以前からあった土着神である地主神を客神として祀る場合が少なくない 
 ・都怒我阿羅斯等の例はまさしくそうである
として、角鹿神社の祭神・都怒我阿羅斯等が気比神宮本来の祭神ではなかったかという。

 敦賀の地が朝鮮半島との交流の場であり、半島からの渡来人が多かったことからみて、彼ら渡来人達が母国の神を祀ったのが気比神社の原点だとすれば、都怒我阿羅斯等の気比神宮祭神説はありうることで、そこに大和朝廷が伊奢沙別命以下の神々が持ちこみ、都怒我阿羅斯等を摂社・角鹿神社の祭神へと追いやったともみることができる(当社を第一摂社とすることも、これを裏付けているのかもしれない)

 角鹿神社の創建にかかわって、式内社調査報告(1986)には、社伝に曰くとして
 ・天皇 都怒我阿羅斯等に勅して此国の政所(地方官)と為す。故に此の津・筍浦に留まる。故に都奴我(ツヌガ・敦賀)の国と謂う
 ・都怒我阿羅斯等従者の船人等 常に獣頭の冠を戴いて謡舞遊を為す。老若寄り集まり、これを観て楽しむ。
 ・その態を問うに、従者答えて曰く、是はツヌガ王本邦の楽也、今聖皇国に到りて快楽するを得むと。是則ち獅子舞の起こり也
 ・後に之を崇めて角鹿神の祠を建つ。今の政所社是也
とある(原漢文、要点抄記)

 この都怒我阿羅斯等が天日槍と同一人物とすれば、上記の伊奢沙別命=天日槍説も一概に否定は出来ない。

 この都怒我阿羅斯等祭神説に対して、当社祭神を“角鹿国造の祖・建功狭日命”(タケイサヒ)とする説があり(大日本紀・神祇志料・敦賀郡誌)
 敦賀郡誌は
 ・按ずるに、祭神 社記には都怒我阿羅斯等とするが、これ必ず角鹿国造の祖・建功狭日命なるべし
 ・社記に角鹿姓(角鹿氏)を都怒我阿羅斯等の後となすは非なり。姓氏録によれば、都怒我阿羅斯等の後は大市首・清水首・碎田首(サイタオビト)の三氏なるべし
 ・古く、神社の主神に近づきできたのは社家の島氏のみという。島氏は角鹿朝臣(角鹿直)の姓を称し、角鹿国造の後にして、その祖神を祀れる者なるべし
 ・角鹿神社を政所神と称するのは、都怒我阿羅斯等に勅して此国政所となして此津に留まるたる故なりというが、政所は国造の訛伝なり(大意)
として、建功狭日命祭神説をとっている。
 ただ、建功狭日命は末社・擬領神社(オオミヤツコ)の祭神であり(上記)、その社名と建功狭日命の後裔・角鹿氏が任じられたという大領職が同じオオミヤツコと呼ばれることから、建功狭日命は擬領神社祭神とみるのが本来かもしれない。

 なお、当社社家・島氏の出身氏族・角鹿氏とは、敦賀における海上交通・漁労等を統率した海人族といわれ、角鹿国造については、先代旧事本紀(9世紀前半)
  「角鹿国造 成務朝の御代、吉備臣の祖・若武彦命(孝霊天皇の御子で吉備臣の遠祖・吉備津彦命の異母兄弟)の孫・建功狭日命を国造に定められた」
とあり、その孫・玉手が角鹿直(ツヌガノアタイ)の姓を賜り、大化改新後は敦賀郡司(その長官職)を世襲したという。

 鳥居の奥に、千鳥破風・唐破風を有する朱塗りの社殿が西面して建つ。
 この社殿は拝殿で、奥に本殿があると思われるが、背後は実見できない。

 
角鹿神社・鳥居
 
同・社殿

同・社殿(側面) 

●境内西側、表参道の大鳥居を入ってすぐの北側に石鳥居が立ち、その奥に東面して小祠が鎮座する。

◎猿田彦神社 末社
 社頭の案内には、
 「猿田彦神社 末社 安政4年(1775・江戸中期)鎮座 祭神:猿田彦太神
   気比大神を案内される神であり、交通安全・家内安全の御神徳は高く、日々の参詣者は頗る多い。
   俗に庚申さまと唱えられている」
とある。

 サルタヒコは、天孫・瓊々杵尊の天降りを先導したという神話から“道案内の神”・“先導の神”とされ、その神格から境内入口に鎮座するのだろう。
 ただ、サルタヒコは、彼我の境界にあって邪神・悪神の侵入を遮るとされる塞の神(サエノカミ、サイノカミともいう)と習合しており、また邪神の侵入を防ぎ且つ旅の安全を守る道祖神として信仰されることが多く(交通安全の神というのは是による)、当社が境内に入ってすぐに鎮座することから、道案内の神というより、神社境内に邪神・悪神の侵入を防ぐ塞の神・道祖神として祀られたかと思われる。

 案内末尾にいう庚申さまとは、江戸時代から昭和初期頃まで流行した庚申信仰のことで、60日ごとに廻ってくる庚申日の夜、徹夜して除災長命を祈ったという俗信で、その礼拝対象を神道系では猿田彦神、仏教系では青面金剛(ショウメンコンゴウ)という(別稿・「庚申信仰とは」参照)
 参道に「庚申神社」と刻した石灯篭があることからみて、当地でも庚申信仰がさかんだったと思われ、庚申神=猿田彦神ということから猿田彦神社として祀られたかと思われる。

 一の鳥居を入ったすぐの左に鳥居が立ち、参道の奥(途中で左に折れている)に小祠が東面して鎮座する。


猿田彦神社・鳥居 

同・社殿 
 
庚申神社と刻した灯篭

【その他】
◎芭蕉の碑
 境内南側に、右手に杖をつき左手に菅笠を持った遊行者姿の俳聖・芭蕉の像が立っている。
 芭蕉は、奥州・北陸道紀行のとき気比神宮に詣でたといわれ、奥の細道(1702)・敦賀条に
 「14日の夕暮れ、つるがの津に宿をもとむ。その夜、月殊に晴れたり。『あすの夜もかくあるべきや』といへば、あるじ(宿の亭主)『越路(コシヂ)の習ひ、猶(ナホ)明夜(アイヤ)の陰晴(インセイ)はかりがたし』と。
 あるじに酒すすめられて、けいの明神に夜参す。仲哀天皇の御廟なり。社頭神さびて、松の木の間に月のもれ入りたる、おまへ(御前)の白砂霜を敷けるがごとし。
 往昔 遊行二世の上人(時宗第2代・真教) 大願発起の事ありて(付近の沼にいる毒竜を砂をもって埋めようという願い)、みづから草を刈り 土石を荷ひて泥渟をかはかせ(泥水を乾かして) 参詣往来の煩(ワズラヒ)なし。
 古例今にたえず 神前に真砂を荷ひ給ふ。これを遊行の砂持と申侍ると 亭主の語りたりける。
  “月清し 遊行のもてる 砂の上”
 15日 亭主の詞(コトバ)にたがはず雨降る。“名月や 北国日和(ホッコクヒヨリ)(サダメ)なき”」
とあり、これに因んで立てられた像で、台座には、当地で詠んだ『月清し 遊行のもてる砂の上』との俳句が刻まれている。

 なお、“遊行の砂持ち”とは、遊行上人縁起絵(1309)に、
 「正安3年(1301)気比社に参詣した遊行上人(二代)他阿真教が道を作ったさい、神官・社僧から遊君・遊女にいたるまでがこれに協力した」
とあるのを指すといわれ(日本中世に何が起きたか・2017)、多くの人々の勧進によって道普請が行われたらしい。


芭蕉の碑 
 
同・拡大

台座の俳句 

◎気比神宮寺(ケヒ シングウジ)
 嘗ての気比神宮内には気比神宮寺と呼ばれる寺院があり、室町末期と伝わる“気比宮古図”には、左側にみえる神宮境内の北から東にかけて(今の本殿域から東・裏参道までに相当する)五重塔・鐘楼ほかの仏教堂舎が描かれている。

 敦賀郡誌には
 ・神宮寺とは神社に附属する寺院にして、諸国の名神大社にて大概あらざるは無かりしも、今存するは稀なり。
 ・気比神宮寺は霊亀2年(716)藤原武智麻呂、近江守なりし時、霊夢に感じて建立する所なり。
とあり、その後の簡単な略記が記されている。 



気比宮古図(左半分が神社区域、資料転写)

 また、藤氏家伝(トウシ カデン・760、藤原氏初期の歴史をつづったもの)には、
  「霊亀元年(715)、藤原武智麻呂の夢に気比大神が現れ、宿業によって神の身となったことの苦悩を告げ、仏道による救済を求めたので、武智麻呂はその願いを聞き入れて神宮寺を建立した」
とあるという(Wikipedia、原文未確認)

 神宮寺とは、簡単にいえば、神仏習合思想によって神社境内に建立された寺院をのことで、文献上、その最古と推測される神宮寺の一つが当気比神宮寺で、以降、8世紀後半から9世紀前半にかけて、全国各地の神社に建立されたという(明治の神仏分離で神社と分離あるいは廃されている)

 気比神宮寺については、藤氏家伝以外に資料なく建立に至る詳細は不祥だが、大宝宝宇7年(763)建立という伊勢の多度神宮寺(三重・桑名市多度)について、同寺資財帳(788)には、
 ・天平宝宇7年、多度大神が人にのりうつり、「吾は多度の神なり。吾れ久劫(長い時間)を経て、重き罪業をなし、神道の報いを受く。いま冀(コイネガワク)ば永く神の身を離れんがために、三宝(仏教)に帰依せんと欲す」との託宣あり。
 ・ここにおいて満願禅師(720--816、近くで道場を営み仏教を弘めていたという)、神の坐ます山の南辺を伐り掃い、小堂および神の御像を造立し、号して多度大菩薩と称す。・・・
とある(義江彰夫・神仏習合-1996より)

 ここで大神は、神であることに苦痛を感じ、そこから脱するために、神の身から離れて(神身離脱)して仏教に帰依することを求めたというが、これは神も人間と同じく煩悩を持つものであり、これを苦痛として、そこから解脱するために仏教にすがったということで、神をも衆生の一とみる仏教側からの解釈といえる。

 神宮寺建立の背景について、義江氏は
 ・8世紀後半という時代は、神を背負って支配してきた地方豪族が治世に行き詰まり、仏教にその打開の道を見いだしはじめた時代であった。
 ・地方の神々の苦悩、神の身を脱して仏教に帰依しようとする願いとは、地方を支配してきた豪族層の苦悩であり、仏教への帰依も、実際には彼らの帰依にほかならなかった。
として、神の名のもとでの支配に行き詰まった地方豪族が、代わりとなる支配理念を仏教に求めたことが、神宮寺建立が弘まった原因ではないかという。
 ただ、神宮寺建立の殆どが僧侶によって為されたことは、建立の背後に、仏と神とを同体あるいは仏を神の上に置こうとする仏教側の思惑があったとみることもできる。

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