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月神信仰/月読神社(京田辺)改訂
京都府京田辺市大住池平
祭神−−月読命・伊邪那岐尊・伊邪那美尊
                                                    2019.12.03再訪

 延喜式神名帳に、『山城国綴喜郡 月読神社 大 月次新嘗』とある式内社。

 JR学研都市線・大住駅の北西約1.2q。駅南の道路を西へ進み、大住ヶ丘交差点を右折、住宅団地内を北上した西側にある大住中学校前の二股路を左に進んだ北部住民センターに北接する叢林の中に東面して鎮座する。
 当社の北には大住小学校と幼稚園があり、道路をはさんだ東には田畑が広がる。

※創建由緒
 社務所前に置かれていた案内@(自由に頂ける)には、
 「月読神社は月読命(天照大御神の弟)とその両親伊邪那岐尊・伊邪那美尊の三柱を祀り、明治10年に延喜式内の神社と定める。
 本社は、平城天皇の大同4年(809)の天皇譲位後、宮殿を平安京より平城京へ遷されんとせられし時、造宮史がその途、大住山において霊光を拝し、ここに神殿を造りしに創まるという(以下略)

 一の鳥居脇に立つ案内Aには
 「月読尊・伊邪那岐尊・伊邪那美尊をまつる式内社で、大社に位置づけられている。
 中世にはたびたび兵乱を受け、社殿の焼失・再建を繰り返したという。
 本社が位置する大住地域の多くは、平安時代末期以降、室町時代末まで奈良興福寺の領地であった。
 神宮寺として、法輪山福養寺が明治初めまで存在した。同寺には奥ノ坊・新坊・中ノ坊・西ノ坊・北ノ坊・東ノ坊の六坊があり、大住小学校は北ノ坊のあった場所と伝えられる。神社境内には奥ノ坊の庭園跡が残っている。(以下略)
とある。

 当社は、延喜式神名帳に“山城国綴喜郡十四座(大3、小11)”とあるなかの大社・月読神社に比定される古社で、月次新嘗の奉幣に与る格式の高い神社である。
 それが明治10年に定められたとは意味不明だが、同じ綴喜郡にあった式内社・樺井月神社との間で、それぞれの比定地について論議があったものを、明治10年に決着させたということだろう。

 また平城天皇は、譲位後、宮殿を平城京に移して平安京の廃止する詔勅を出すなど、後嗣の嵯峨天皇と対立するが、嵯峨帝の抵抗にあい挫折、身を引いて出家している(薬子の変)
 案内@にいう「宮殿を平安京(京都)から平城京(奈良)に移そうとした云々」とは、このことを指す。

 案内@は続いて、数度にわたる兵火による被災焼失とその再建・修理の経緯を記し、その間、源頼朝が参詣して神馬奉納・所領寄進(建久6年-1195)があったこと、あるいは幕末の動乱期に、石清水八幡宮が兵火を避けて一時遷座した(慶応4年-1868)ことなどをあげ、当社が格式ある古社であると記している。

 案内@にいう、大同4年創建を云々する材料はないが、当社の前身は、かつて当地に移住して開発にたずさわった『隼人族』の人々が齋き祀った氏神社であったと思われる。

※祭神
  月読尊(ツクヨミ)

 月読尊の出自について、古事記には(黄泉国から帰ったイザナギ尊が日向の橘の小門で禊ぎをされ、・・・)
 「ここに左の御目を洗ひたまふ時成りし神の名は天照大御神、次に右の目を御目を洗ひたまふ時成りし神の名は月読命、次ぎに御鼻を洗ひたまふ時成りし神の名は建速須佐之男命」
とある神で、アマテラス・スサノオと並んで成りでた所謂・三貴神の一で、イザナギから
 ・汝命は夜の食国(オスクニ)を知らせ」(汝は夜の国を治めよ)」と命じられている。
 一方、書紀(5段一書6)には「月読尊は青海原の潮流を治めよ」と命じられたとある

 月読尊の事蹟について、古事記は何も語らないが、書紀(5段一書11)には
 ・アマテラスから、「葦原中国に保食神(ウケモチ・食物の神)がおられるというから、行って見てこい」と命じられ 
 ・ウケモチ神に会ったとき、ウケモチが口から出した食べ物で饗応しようとしたので、汚らわしいとしてウケモチを殺した
 ・それをアマテラスに報告したら、アマテラスは怒って「お前は悪しき神だから、もう会いたくない」と絶縁された
 ・これから、アマテラスとツクヨミは昼と夜とに分かれて住むようになった
とあり、これが昼と夜とが分かれた原因とされ(大要)
 また、続けて
 ・殺されたウケモチの遺体から稲・粟・蚕・牛馬などが生まれたので、これらを採って人々の食物とした
とあり、食物生成神話の発端ともなっている。

 この記紀神話にいうツクヨミに対して、民俗学的ツクヨミとして
 ・月読の“読む”とは“月の満ち欠けを読む”ことで、そこから農耕に必要な暦がつくられ、月の満ち欠けに伴う潮の干満を知ることで漁労・舟行の便がはかられ、これら月齢を司る神としての月読の神
 ・万葉集に
 「天橋(アマハシ)も 長くもがも 高山も 高くもがも 月読の 持てる変若水(オチミズ) 
                      い取り来て 君に奉りて 変若(オチ)得てしかも」(13巻3245)
   (天の梯子がもっと長く 高山がもっと高かったなら、月読が持っている変若水を取ってきて 君に捧げて若返ってもらうのに)
とあるように、月に坐す神は人間を若返らせる魔法の水を持っているといわれ、
 ・これに関連して、沖縄(宮古島)には、
  月神が人間を若返らせてやろうとして、変若水と死水を二つの桶に入れて下界に降ろしたが、途中で蛇が変若水を浴びてしまい、仕方なく死水を人間に浴びせたため、蛇は脱皮して蘇り、人間は死ぬようになったとの民話があるという(大意)

 当社が大住隼人族に関係する神社いうことから、彼らが奉祀した月読神は、記紀神話にいうそれではなく、潮の干満を司る神であり、人間の寿命に関与する神としての月読神であったと思われる。

※社殿等
 道路脇に一の鳥居が立ち、その左前に『隼人舞発祥之地』と刻した大きな石碑が立っている(下記)
 一の鳥居を入った少し先に二の鳥居が立ち境内に入る。


月読神社・社頭 

同・一の鳥居 
 
同・二の鳥居及び境内

 境内正面に入母屋造・瓦葺きの拝殿が東面して建ち、昭和54年(1979)の改築という。

 
同・拝殿(正面)
 
同・拝殿(側面) 

 拝殿背後、玉垣に囲まれた区画が本殿域で、その中央に本殿が東面して鎮座する。
 本殿について、案内@には
 「現在の本殿は、東に面する一間社春日造・銅板葺(元は檜皮葺)の建物で、明治26年(1893)に名古屋の伊藤平左衛門により設計された。
 本殿を囲む玉垣の正面に鳥居を配置する珍しい構造が見られる」
とあるが、外から玉垣正面の鳥居はみえない。


同・本殿(左より) 
 
同・本殿(右より) 

◎境内社
 境内には、境内社6社が鎮座するが、いずれも鎮座由緒等は不明。
*御霊神社
  本殿域の向かって左に鎮座する小社で、玉垣の中に一間社春日造・檜皮葺きの社殿が東面して鎮座する。
  社頭の案内には
   「少名毘古那神(スクナヒコナ)を祭神とし、薬の神様として信仰を集め、又クサガミ(瘡神)さんの名で知られている。腫物に霊験ありという」
とある。

 社名の御霊とは、通常、ゴリョウと読んで怨霊をさすが、それでは薬の神・少名毘古那とは結びつかず、当社社名はミタマと読むのであろう。

 
御霊神社・正面
 
同・社殿

*辯才天社
  境内南側の疎林に中に古池があり、簡単な石橋を渡った小島のなかに西面して祀られている。
  この池は、かつての福養寺奥ノ坊庭園の一部かと思われる。

*足の神様
  二の鳥居を入ってすぐの左側(南側)の疎林に中に西面して鎮座する小祠
  案内等なく、足の神が如何なる神かは不明。


辯才天社・全景 

同・社殿 
 
足の神様

*天満宮
  境内右側(北側)、拝殿の向かって右前に南面して鎮座する小祠で、菅原道真を祀る祠であろう。
  社務所(無人)の左隣りに位置する

*金比羅神社
  一の鳥居を入った右側に南面して鎮座する小祠

*稲荷社
  一の鳥居を入った左側(南側)の高所上に鎮座する小祠


天満宮 
 
金比羅社
 
稲荷社

 なお、境内には「明治天皇陵遙拝所」などの石柱が数基立っている。

※隼人舞伝承地

 一の鳥居の向かって左前に『隼人舞伝承地』と刻した大きな石碑があり、傍らの案内には
 「九州南部の大隅隼人が7世紀頃に大住に移住し、郷土の隼人舞を天皇即位にともなう大嘗祭のときなどに朝廷で演じ、また月読神社にも奉納して舞い伝えてきた。
 隼人舞は、岩戸神楽とともに日本民族芸能の二大様式ともいわれ、古事記や日本書紀の海幸山幸の神話に起源するといわれている。(以下略)
と記し、
 石碑背面には
 「この大住の地は、奈良町以前頃から九州の大隅・薩摩・日向三国の隼人が移住して月読神社に奉仕したといわれ、日本芸能の主流ともされている。
 昭和47年4月に大住隼人舞保存会を結成した。
 昭和50年12月に田辺町指定文化財(無形)第一号に指定された。
 御大典を記念して記念碑を建立す。  平成2年11月12日」
とある。

隼人舞発祥之碑

 隼人とは、古代の九州南部の薩摩・大隅地方に居住していた人々を指し、大和民族とは異なる民族で、東南アジア島嶼部から南太平洋にかけて分布するオーストロネシア語族に属するというが、確かな証拠はない。 
 5世紀頃には大和朝廷に服属したというが、その後も、度重なる反乱記事が国史に記され、完全服従は8世紀前半ともいわれる。

 隼人の出自について、記紀に記す「海幸彦山幸彦神話」では、天孫ニニギの御子・海幸彦を祖とする。
 兄・海幸彦(ホデリ命)から借りた釣り針を失い、それを探して海神の宮に行った山幸彦(ホヲリ命、別名:ヒコホホデミ命−天孫ニニギの御子・神武天皇の祖父)が釣り針を見つけての帰国後、海神から与えられた宝珠・潮満珠(シオミツタマ)と潮干珠(シオヒルタマ)をつかって海幸彦を苦しめ、為に海幸彦は「今より以後、汝命の守護人(マモリビト)となりて仕へ奉らむ」と降参した。
 海幸彦は隼人族の祖であり、隼人族が朝廷に仕え、伝承する隼人舞を舞う(一説では、その舞は、海幸彦が満ちてくる潮に溺れて苦しむ様を写したものともいう)のはこのためである、という。

 しかし、本来の海幸山幸神話は、海山の豊穣を約束する神々の物語として南九州に伝わるものといわれ、
 それが記紀に取り入れられる段階で、天孫・ヒコホホデミと結びつけられ、隼人族の服従伝承へと改変されたともいう。
 因みに、南九州には天孫ニニギやヒコホホデミに関連する伝承が多い。所謂日向神話である。

 この神話そのものには月神との直接的な関わりはない。
 ただ、山幸彦が海神の館を訪れたとき、門前にある泉の傍らの桂の木に登って海神の娘・豊玉姫を待った話(月には桂の木が生えているという)とか、海神から潮の干満を意のままに操る潮満珠・潮干珠を与えられた話(月は潮の干満を掌る)などは、月神信仰との関わりを示唆するという。
 また南九州に伝わる伝承習俗には、月神信仰に関わるものが幾つかあるという。先述したように、隼人族が南方系海人民族の血をひくとすれば、海の潮を掌る神としての月神信仰を持っていたと思われる。

◎大住と隼人
 石碑では“隼人族の当地移住を7世紀頃”とするが、大住にある前方後方墳を「5世紀頃、年代を引き下げても6世紀前半の隼人集団の統率者級の古墳」とみる見解(森浩一)、あるいは時代は降るが正倉院に残る古文書や続日本後記(869)に、当地の居住する隼人族の大住忌寸(イミキ)・阿多忌寸なる人物名が載ることからみて、5世紀とはいわぬまでも、相当古い時代から隼人の人々が当地方に居住していたと思われる。因みに“大住”の地名も“大隅隼人”に由来するという。

 大住の地には、当社や別稿に記す樺井月神社の他にも月読命に関わる神社が幾つか残っている。
 当社の南約4qの甘南備山(カンナビ、H=217m)には月読神が降臨したとの伝承があり、山頂に鎮座する神奈備神社(式内小社)の本来の祭神は月読命でくないかという(今の祭神はアマテラス他4柱)
 また甘南備山北東山麓の薪神社には注連縄を張った神石(H≒1m)があり、地元では月読神が降臨した磐座・影向石といわれている。
 これらのことからみて、当地に居住した隼人の人々は甘南備山を月読神が降臨した聖地と見、その麓に幾つかの月読社を創建したと思われる。
 ただ、これらに祀られている月読命は、記紀にいう三貴神の一人としてのそれではなく、潮の干満を左右する月神という土俗的・海人的な月神信仰に基づくものであろう。

※能楽・宝生座発祥の地

 本殿左手の疎林の中に「宝生座発祥の碑」との石碑があり、
 「月読神社の神宮寺を宝生山福養寺といい、老松の茂る池には亀が遊んでいた(今の大住中学校の地)
 この神社と寺に奉納した能楽座を宝生座(外山座-トビザともいう)と称した」
とある。

 宝生座と(ホウショウザ)は観世座の祖・観阿弥の長兄(宝生大夫)によって始められた大和4座の一座(室町中期)で、特に第5代徳川綱吉の贔屓を受け、その頃の加賀藩主・前田綱紀の後援を受けたことから加賀地方(金沢)に広まり、今も加賀宝生の名で親しまれているという(演歌・加賀の人の歌詞にも「加賀宝生・・・」と唄われている)

宝生座発祥地の碑

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